公園の三宝池の入り口にあったアジサイの色がとてもきれいです。
きょうは、このお寺の彫刻や仏像の完成度の高さと行き届いた掃除に感心していました。
これだけのものが奉納されているのは、このお寺の存在が大切にされているということをしみじみと感じます。
そう思いながら座った不動明王さまのところで、
「大切にするとは、どんなことだろうか。」
・・・あらためて「大切にする」の意味をきかれると、大きく切ると書くけれど・・・
気にかける、ということでしょうか?
「気にしていることだ。断捨離は、ただ整理するために物を少なくするということとは違う。」
この本堂にはたくさんの仏具や仏像、飾り物があるのですが、きれいに保管され、愛されている感じが伝わります。
気にかけたくなるようなものだけにすればいいのです。
大量生産で安価に手に入り、あったら良さそうだからという感覚で集めてしまった物は後々、あることすら忘れていることがあります。
大切にしたい物の数は人それぞれであり、少ない方が良いというのとは違います。
断捨離は、気にしていることができない物が不用品なのだと思いました。
ご住職さま方のところでの教えは、お釈迦さまからのようです。
きのうの「そうなんだ神」の名前をきいてみました。
「観自在菩薩」さまでした。
詳しくないので、後で検索してみると、観音様と呼ばれ、人々の悩みを聞いてくれる菩薩様ということです。
ということは、どこかのお寺に行って聞いてもらうこともなく、常にひとつ残らず全員の心を聴いていてくれるのです。
「美しい衣は、自分が美しいと感じて楽しむだけで、他人に認められなくていい。
ある心は、その周りに壁をつくり、部屋の中に居るような感じで窓ガラス越しに外側を見ているから、どれだけどんなふうに美しい衣なのかをしっかりみることができないのだ。」
心が着ている美しい衣は、神様に見てもらっていればいいんだ。
美的感覚はそれぞれ違うものだし、美しい衣だと気づいてくれる人がいたらお互いの美しさが分かるのでしょう。
自分が美しい心の衣だと思うものを選んで着ていればいいわけです。
空海さまからは、
「相手が美しい衣にうっかり何かをこぼしてしまったくらいなら大して気にならない。
相手が意図的に墨をかけたり、破いたりしたなら、『それはひどいだろ!』と言うべきだ。
言わなければ、相手の成長にならない。
その場で相手が気づきを得なくても、気づく要素をつくることが出来る。」
いい人になったつもり、ではいけないわけですね。
そうした相手が自分の過ちに気づくために起きている出来事があるのです。
その人自身の感覚では正しいと思って行動している場合もあります。
そうするべきではなかった、と気づいた瞬間に神の世界では許されています。
人間界には、汚れた衣を着ている心が、ああだこうだと言ったりしますが、自分の過ちが見えた瞬間、古い自分を手放し、生まれ変わっています。
「ほんとうはこうするべきではなかった」と過ちを認めて、自分も他人も幸福になる行動ができる人の方が、本当にかっこいいと思います。
大黒様がいつも笑顔なのは、もしかしたら、悲しむ人も怒る人も、未来では成長して笑っている魂を知っているからなのかもしれません。