きょうの公園は本当に気持ちの良い風と空気の中、景色も最高でした。
鳥の種類は分かりませんでしたが、三羽が三本の木の棒に止まっていました。
ラクウショウの樹は大地にしっかり座っています。
人が何人か隠れられるくらいの幹の太さです。
陽の角度がちょうどお寺の看板文字を光で照らしていて、黄金に輝いていました。
不動明王さまからは、「旅は始まっている」とだけ言われました。
どこでどう始まったかは自覚がありませんが、密かに展開されている何かがあるのでしょう。
お釈迦様と話ができると分かってから、質問してみたいことがあり、きょうは楽しみにしてきました。
なぜ仏法に伝えられている言葉の表現が難しいのでしょうか?
この時代のことばとは違いが大きいのか、分かりづらく感じます。
と訊くと、
「相手の心が着ている衣に合わせて話をした。
それぞれが少し異なっていたので、後に宗派ができた。
ありふれた言葉では心の底から聞きたいという反応にならない者もいる。
後の僧侶たちが神秘的に演出したところもある。
しかし、心の揺れについて話したことと同じだ。
美しい衣が分かった後、美しい衣を自慢したくなる者もいる。
自分の衣をよく見ることだ。」
なるほど~、わたしにとっては、樹の根っこや枝葉の揺れと心の衣という表現がしっくりきたけれど、聞いたことのある言葉よりも、難しく分からない言葉の方が意味を知りたいと思うものですよね。
神秘的な部分が強くこの時代に残ってしまった感じがします。
僧侶でも仏教徒でもないわたしが、お釈迦様から話を聞いているなんて、大概のひとたちは信じないかもしれません。
信じてもらえなくても全く問題ありません。
斉藤ひとりさんが講演会などで「この話は信じなくていいですから」とよく言っていたのを思い出します。
いまはその気持ちがすごくよく分かります。
信じてもらえなくても、わたしは何も損はしないのです。
この話を読んだり聞いたりした人が、自分に役に立つと思えばその人が得をするだけのことです。
心の衣は、理屈を理解した人が衣を着替えるという実践ができていないと、着ている衣の上に美しそうな衣、美しいデザインの袈裟などを重ね着することになるのでしょう。
自分の心の衣を認めてもらえないと、美しい衣の下に着ている衣がチクチクするに違いありません。
これがわかってくると、おもしろいですね。
お釈迦様は、相手に合わせてお釈迦様も別の美しいデザインの衣に着替えていたのではないかと思います。
参拝がやめられません。
次は何を聞けるか楽しみです。
空海さまに訊いてみました。
心の揺れを体験しにこの世にきたのであれば、吹いて来る風に揺らされればいいということですね。
「自分の心をしっかり持ち、嵐に備えよ」
えっ! 嵐⁉・・・
いったいどんな嵐がくるというのでしょうか・・・
「心配するな」
自分の心を配るな、ということです。
自分の心を自分のところにしっかり固定し、安心、安らかな心で居よ、ということです。
最初の「体をゆるめて、心をゆるめて、今に居る」から復習実践しておいた方が良さそうな気がしてきました。