ボート池の前の大きな樹が下の方で二つに分かれていて、この樹を見るたびに、まるでカップルが池に向かってダンスしているように感じてしまいます。
三宝池は日に日に都会を忘れる森の空間になってきています。
水面との境目が幻想的に溶け込んでいました。
昨日の雨の後だからでしょうか、7時前からたくさんの人が散歩していました。
癒しのフォトンを思いっきり吸い込んでいたいので、わたしはノーマスクで歩きますが、ほとんどの人はマスクをしていて、この空気を直接呼吸しないなんて、もったいないと思います。
では、本堂へ。
不動明王さまのところで座ると、きょうは正座でゆったりとしていました。
少し姿勢を調整したくらいで、昨日までのように大きく両手や背骨を動かされることはなかったので、エネルギー的にまっすぐ座る姿勢がとれてきたのかもしれません。
自分でもどこにも負担が無く完全に力を抜いて座ったのは、きょうが初めてのように感じました。
「座禅というのは、身体をまったく動かさないように座るというよりも、いつでも動ける状態でありながら、静かに落ち着いているのだ。
心にいろいろなものが通っていくが、心はゆったりと漂わせておくことができる。
体の細胞は微かに心地よく揺れても良いように力が抜けている。」
空海さまのところでは、
「前と後ろ、右と左、上と下、その中心にあなたという意識がある。
二極の間で抵抗なく居るとき、完全にリラックスし、あなたという樹が自然に無理なく在ることができる。
まわりの空気の動きに合わせて、抵抗することなく揺れることができる。
枝葉が揺れても、あなたの心は安らかでいられる。」
きのう教えていただいた「安らかな心で挑戦する」という状態は、まわりから見ると枝葉が風で揺れたりしていても、心の中は抵抗するものがなく、ゆったり座っているような感じなのだと思いました。
この世を感じるために与えられたわたしという自我(エゴ)は、良い悪いの二極の間で揺れ動かされるけれど、良いものだけにしたいと闘うのではなく、動かされることを体験しにこの時代の地球に生まれて来たのだから、「こんなふうに思った」、「こんなふうに感じた」という揺れの感覚をただ通り過ぎていくのを見守るということなのでしょう。
座禅をするとき、きれいに座っていれば自分の内側で何かが起きることを期待してしまう傾向にあると思います。
身体がゆったりと座っていられないのは、心がゆったりできないからなのでしょう。
ここでも最初に教わった「体をゆるめて、心をゆるめて、今に居る」に戻ることになります。
最初に心をゆるめるのは難しいので、肉体の内側にたまっているゴミを出して、身体をケアしてリラックスさせて、心にたまったゴミも燃やしてしまうといいのです。
「こんな想いを持っていた」という心の内側にあるものを自覚することで消えていきます。
多くの人たちがエゴの正しい使い方を知らないだけだと、バシャールは言っていました。
海の中が3次元世界、水面上が5次元世界だとしたら、この3次元の現実世界を体験できるのは、自我・エゴというダイビングマスクがあるおかげなのだと。
「いま」を体験するためだけに与えられた役割が「自我・エゴ」なのですが、わたしたちはそれ以上のことをさせてしまうのだと言っています。
エゴには、未来を予測したり、コントロールしようとしたりする能力は与えられていないということを実感しないとなりません。
しかし、いつからどうして間違えた使い方を教えられてしまったのか、ここで苦しんでいる人が多いのだと思います。
魂が計画した体験をスムーズに進めていくなら、ハートに響いてくる感覚がサインだと、高次元存在たちは言います。
心地よい、ワクワクする、情熱を感じる、といった感覚を追いかける生き方をするだけなのです。
「直感に従う」練習をしていきましょう。
エゴのまちがえた使い方をしてしまった現実も、通り過ぎる心の揺れのひとつとして眺めていける静かに座る心になればいいですね。
過去のすべてを「いま」そのように眺めてしまえば、内側がきれいになり、本当のワクワクした情熱で行動できるハートのサインを感じるのだと思います。
すべての揺れが根っこを作るのですから。